父と子の笑顔
<町の陸上競技会で撮った一枚の写真>
この男は無愛想で、もしかしたら生き方も不器用で、でも実直で、それが陸上競技にも現れている。
仮にIさんとしよう。
Iさんは普通のサラリーマンで、普通のアマチュアの陸上競技選手だ。
香川県出身で、働き始めたときは今より10キロは太っていて、それでも100メートルを走ると抜群に速かった。筋骨隆々。蒸気機関車が駆け抜けるようで、併走すると怖いくらいだった。
仕事も忙しくなり、競技を優先する生活は出来なくなったが、それでもなるだけ地元M市の競技会には顔を出す。高校時代から得意種目は砲丸投げで、練習時間がとれなくなると、短距離走からは遠のいた。
家庭を持ち、息子も出来た。アスリートにとっては一番苦しい一時期でもある。
8月1日、東京都の市町村総合体育大会の陸上競技が小平で行われた。
Iさんは、競技開始が早まったのを知らずに、もう最終コール(選手招集)が終わってから、やっとやってきた。仲間達はやきもきしたが、本人は別にあわてるでもない。こういうこともある、といった風情で、ゆっくりと砲丸をタオルで磨き、試投して、そのまま無言で競技を始めた。
砲丸投げを練習する場所はない。
陸上競技の困ったところは、長距離はロードでも練習できるが、幅跳びや高跳び、ましてや投てき種目は、どこかの大学や実業団にでも入っていないと、やる気があっても日常の実技練習はできない。
従って、「試合だけが実技練習」という人も少なくない。その分、日常で何をやるか、どう体を仕上げるかが、カギになってくる。Iさんもまた、夜中に走ったり、土日の筋トレに汗を流す1人だ。
Iさんはそういうことに弱音を吐かない。もともと無口で、言い訳をしたり、自慢したり、くどくどと自分の練習や結果を仲間に説明したりもしない人だ。
その代わりに結果は雄弁だ。
無関心なような表情とは裏腹に、フォームは豪快で、しかもキレがあった。鋭さもあった。
砲丸投げは心理的な要素が非常に強いスポーツだが、Iさんはみじんも緊張を感じさせず、淡々と投げた。まるで野武士のようだった。
そして、優勝した。9メートル94。自己ベスト10メートル56には遠く及ばないが、しっかりと投げきった。
笑いもせず、うれしそうな顔もせず、かといって傲慢でもなく、何事も起きなかったような表情で仲間の所に戻り、無言で着替えを始めた。
Iさんの奥さん賀代子さんと3歳の息子さんの海睦君が遠慮がちにやってきて、みんなに挨拶した。Iさんは、照れながら息子を呼んだ。みなが、「金メダル、見せてやれよ」「かじるかな」などとはやし立てた。せかされて、Iさんはつまらなそうに、もらった金メダルを子どもに見せた。
人前で自分のメダルを出したことなど1度もないのに−−貰えない仲間への配慮かもしれない−−坊やが興味を示すと、ケースから出して子どもに渡した。子どもがいじり始めて、食べるしぐさをした。回りがけしかけるので、子どもは恥じらいながらそれを口にして、かじった。
そのときだった。あれほど無表情だった旗本退屈男のようなIさんが、「どんな味だ」と、笑ったのである。
自分が金メダルを貰ったこと自体、全然うれしくなさそうだったが、子どもがそれをかじった途端に、本当にうれしそうに、満面に笑みを浮かべたのである。「父親の笑顔」でもあり、彼自身が子どもに返ったような「子どもの笑顔」だった。なんだよ、こいつ、笑うこともあるのか。みながそういう顔で、ちょっと驚いて、でもつられて一緒に声を上げて笑った。
五輪に比べれば、あまりにも小さな大会だ。
けれどそこで見た、一瞬のIさんの笑顔は、どんな金メダル・シーンにも匹敵するものだった。僕は胸を打たれた。僕は100メートル4位だった。土のトラックでの13秒4は悪くはないが、ハッピーでもなかった。でも、彼の笑顔を見た瞬間に、自分も「スポーツの本質」の金メダルを分けてもらったような気がした。
そのとき、撮ったスナップ写真。
真夏の日射し。木々の臭い。しゃれっけのないメガネ。そして額の汗。懐かしい「父親」がそこにいる。
世界から見れば、小さな町の小さな競技会かもしれない。けれどアテネ五輪に本当に期待するのが、こういう場面だ。五輪を支えるのは、こういう笑顔なのだ。
ちなみにIさんは三鷹陸協所属、日本無線勤務の岩本正久さん、26歳である。
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後藤新弥(ごとう・しんや) 日刊スポーツ編集委員、58歳。ICU卒。記者時代は海外スポーツなどを担当。CS放送・朝日ニュースターでは「日刊ワイド・後藤新弥のスポーツ・online」(土曜深夜1時5分から1時間。日曜日の朝7時5分から再放送)なども。
本紙連載コラム「DAYS’」でミズノ・スポーツライター賞受賞。趣味はシー・カヤック、100メートル走など。なお、次ページにプロフィル詳細を掲載しました。
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